大伴旅人は国分平野を見たか!?
(比売乃城を眺望す)
養老4年(720年)2月
大隅の国で事件が起きた。
大隅国公・陽侯史麻呂、殺害さる!
「隼人反(そむ)きて、大隅國守陽候史麻呂殺せり」
この一報は大宰府経由で奈良の朝廷へと伝えられた。
俗に言う「ハヤトの反乱」である。
国司が地方の民に殺されるなどあってはならない事だった。
しかし、ハヤトからすれば、反乱ではなく抗戦であったはず。
いくつかの資料を参考にして、「大伴旅人と隼人の乱」を温故知新してみた。
遠い大隅の国で起きた一大事に対して、3月、朝廷は直ちにハヤト討伐を決定。その命を受けた大伴旅人は軍の大将として鎮圧に向かった。この時、旅人、56歳。
6月、戦果が挙がっているとの戦況が伝えられるが、次第に夏の暑さで苦戦を強いられていく。
8月になると、将軍大伴旅人は帰京を命じられる。帰京命令の理由は、高齢の旅人の身を慮ったのか、朝廷における要職の不在が案じられたのか、あるいは、藤原不比等の病死が関連しているとも考えられそうだ。
ハヤト平定は未完であったから、副将軍以下は留まり戦闘を継続させられた。
一方、迎え撃つハヤトは、七つの砦を構え、朝廷の大軍を相手に抗戦を続けた。
長期戦のなか五つの城(奴久等、幸原、神野、牛屎、志加牟)は落ちたが、最後まで残ったのが曾於乃石城、比売乃城の二つの山城であったと、後の資料『八幡宇佐宮御託宣集』は伝えている。この二つの砦は国分平野を見下ろす現在の城山と姫城の山上にあたるとされている。
しかし、一年数ヶ月もの抵抗もついに力尽きた。
翌年、養老5年(721年)7月、副将軍らが捕虜を伴い都へと帰還、ハヤトの大きな犠牲をもって戦いの終結に至る。
さて、この戦いで朝廷軍はどのような経路で大隅の国に入り、どこまで進軍したのだろうか。ハヤト研究者、中村明蔵氏によると、「征討軍は西海道の西・東沿岸部に沿って南下したとみられる」そうだ。
山から攻めて来たのか、あるいは、舟を使い海から上陸したのか…
「西隅の小賊」という西隅は、どこにあたるのか。
ならば、大伴旅人は「藤原不比等死す」の知らせをどこで受けたのだろう…
薩摩国隼人の瀬戸(黒之瀬戸海峡)を後に、歌に詠んだと伝わっているが、
妄想は膨らむばかり。
(曾於乃石城を眺望す)
大伴旅人はこの地を踏んだのか!?
1300年前の歴史の舞台。
川の流れは変えられたとしても、
山と平野と海が織りなすこのパノラマにさほどの変化は見られまい。
北には曾乃峯に連なる聖なる山々、南には海に浮かぶ火の島。
天然の要塞、曾於乃岩城と比売乃城からは、のろしが上がる。
ハヤトの勢力に、この景観に、圧倒されたのではないだろうか。
(国分城山公園)
参考資料:『隼人の古代史』中村明蔵著 他