「古代南九州 ~魂の大地~」想望記

太古、地球の営みにより形成された景観。 遥か昔、この大地で暮らしていた人々。 悠久の時を経て刻まれたヒストリー。 物換わり星移り、歴史は語られてきた。 空と海と山が一つになる「魂の大地」 新しい発見を求めて、「ふるさとを温故知新しよう!」 妄想から始まる、ふるさと再発見! 自由に勝手に「古代妄想」 共感するか、しないかは、あなた次第。

大伴旅人は国分平野を見たか!?

f:id:icchiqu:20190526215755j:plain(比売乃城を眺望す)

 

養老4年(720年)2月

大隅の国で事件が起きた。

大隅国公・陽侯史麻呂、殺害さる!

「隼人反(そむ)きて、大隅國守陽候史麻呂殺せり」

この一報は大宰府経由で奈良の朝廷へと伝えられた。

俗に言う「ハヤトの反乱」である。

国司が地方の民に殺されるなどあってはならない事だった。

しかし、ハヤトからすれば、反乱ではなく抗戦であったはず。

いくつかの資料を参考にして、「大伴旅人と隼人の乱」を温故知新してみた。

 

遠い大隅の国で起きた一大事に対して、3月、朝廷は直ちにハヤト討伐を決定。その命を受けた大伴旅人は軍の大将として鎮圧に向かった。この時、旅人、56歳。

6月、戦果が挙がっているとの戦況が伝えられるが、次第に夏の暑さで苦戦を強いられていく。

8月になると、将軍大伴旅人は帰京を命じられる。帰京命令の理由は、高齢の旅人の身を慮ったのか、朝廷における要職の不在が案じられたのか、あるいは、藤原不比等の病死が関連しているとも考えられそうだ。

ハヤト平定は未完であったから、副将軍以下は留まり戦闘を継続させられた。

一方、迎え撃つハヤトは、七つの砦を構え、朝廷の大軍を相手に抗戦を続けた。

長期戦のなか五つの城(奴久等、幸原、神野、牛屎、志加牟)は落ちたが、最後まで残ったのが曾於乃石城、比売乃城の二つの山城であったと、後の資料『八幡宇佐宮御託宣集』は伝えている。この二つの砦は国分平野を見下ろす現在の城山と姫城の山上にあたるとされている。

しかし、一年数ヶ月もの抵抗もついに力尽きた。

翌年、養老5年(721年)7月、副将軍らが捕虜を伴い都へと帰還、ハヤトの大きな犠牲をもって戦いの終結に至る。

 

さて、この戦いで朝廷軍はどのような経路で大隅の国に入り、どこまで進軍したのだろうか。ハヤト研究者、中村明蔵氏によると、「征討軍は西海道の西・東沿岸部に沿って南下したとみられる」そうだ。

山から攻めて来たのか、あるいは、舟を使い海から上陸したのか…

「西隅の小賊」という西隅は、どこにあたるのか。

大隅国の西部なら、この国分平野を指しているのか…

ならば、大伴旅人は「藤原不比等死す」の知らせをどこで受けたのだろう…

薩摩国隼人の瀬戸(黒之瀬戸海峡)を後に、歌に詠んだと伝わっているが、

はたして、大隅国国府までもやって来たのだろうか…

妄想は膨らむばかり。

 

f:id:icchiqu:20190526215540j:plain(曾於乃石城を眺望す)

 

大伴旅人はこの地を踏んだのか!?

1300年前の歴史の舞台。

川の流れは変えられたとしても、

山と平野と海が織りなすこのパノラマにさほどの変化は見られまい。

 

北には曾乃峯に連なる聖なる山々、南には海に浮かぶ火の島。

天然の要塞、曾於乃岩城と比売乃城からは、のろしが上がる。

ハヤトの勢力に、この景観に、圧倒されたのではないだろうか。

 

f:id:icchiqu:20190526202533j:plain

(国分城山公園)

f:id:icchiqu:20190526202621j:plain

 参考資料:『隼人の古代史』中村明蔵著 他

海上交易とマッチョな古代海人集団

 昨年夏(2018年8月)、長崎県佐世保市の離島、高島にある弥生時代の宮ノ本遺跡で古代史研究者を驚かせる発掘があった。それは、下半身に比べ上半身が異常に太い弥生人の人骨であったとのことである。(NHK NEWS WEB 記事参照)この骨の人物は「マッチョな弥生人」と呼ばれ、NHKの番組「クローズアップ現代」でも放送されていた。

 

マッチョな弥生人の骨は、高島以外にも長崎県の平戸や五島、そして熊本県の天草など、九州西北部の複数の島から見つかっていたことがわかり、彼らは海上交易を担っていた集団の舟のこぎ手であったと推測されている。

 

このマッチョな弥生人とは別に、九州北部の遺跡から貝製の腕輪を身に着けた人骨が発掘されており、こちらは権力者であろうとされている。権力の象徴を表す装身具の一つである貝輪。南の海にしか生息しないゴホウラやイモガイの腕輪が各地で出土しているそうだ。 

 

古代の日本列島で南海産の貴重な貝製品をめぐる需要と供給が発生し、その物流を担っていたであろうマッチョな弥生人は大海原をものともせず長距離を漕ぎ続けることで、腕の筋肉が発達、それに伴い上腕骨が異常に太くなったということだ。

 

貝の交易ルートは沖縄や奄美の島々から薩摩半島沿岸をへて北部九州を結んでいたそうだ。南さつま市金峰町の高橋貝塚では加工途中の貝輪や、九州北部で使われていた土器が見つかっており、交易の中継地であったことを物語っている。

 

縄文時代に遡れば、石器に使用された黒曜石も、産地から遠く離れた場所で出土している例が多い。伊豆諸島神津島の黒曜石は関東地方の各地に運ばれていたそうだ。

 

また、国立科学博物館「3万年前航海 徹底再現プロジェクト」の代表、海部陽介氏は、日本一マッチョな縄文人集団がいたという研究成果を発表している。愛知県田原市渥美半島)の縄文時代晩期の保美貝塚から見つかった男性の骨が異常に太いのは、外洋での漁労生活に加え、当時、石器の材料として重宝されたサヌカイトを求めて、積極的に海上交易をおこなっていたからだという。

 

九州でも霧島市上野原遺跡出土の黒曜石は、県外の大分県姫島・佐賀県腰岳・長崎県産などの物が多く見つかっており、このことから上野原など南九州の縄文早期人はすでに海上交易に乗り出していたらしいということがわかっているそうだ。

 

遥か昔から古代人は海上交易を営んでいた。それ以前に、日本列島へ移住した我々の祖先は海を渡って来たであろう。その大航海術を手漕ぎ舟により証明しようという実験が、前述した国立科学博物館の「3万年前航海 徹底再現プロジェクト」である。

 

壮大なロマンが証明される日が楽しみだ。

 

国立科学博物館「3万年前航海 徹底再現プロジェクト」のページ:

https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/about/index.php